はじめに
母の台所から
母の話を、聞けるうちに聞いておこうと思いました。この本は、その一年の記録です。
きっかけは、去年の正月です。台所で煮しめを作る母の手つきを見ていて、ふと、この手順を私は説明できないと気づきました。味も、順番も、なぜ里芋を先に炊くのかも。母に聞けば済む話です。でも、聞ける時間が当たり前に続くわけではないことも、この歳になると分かります。
とはいえ、あらたまって「昔の話を聞かせて」と言うのは、親子だと案外難しいものです。母も「話すことなんてない」と笑うだけでした。そこで、AIのインタビューに質問役をお願いしました。画面が「子どものころ、家の水はどこから来ていましたか」と聞く。母が私に向かって答える。私は横で相づちを打ちながら、録音するだけです。質問が少し他人行儀なおかげで、かえって母は話しやすかったようです。
録音は月に二度、いつも台所でした。一回二十分のつもりが、四十分になり、一時間になり。井戸の水汲みの話が、いつのまにか嫁入りの日の話になり、父の話になりました。一年で十四回。気がつけば、私の知らない母が、録音の中に七十年分たまっていました。
この本は、その語りを時代の順に整えたものです。母の言い回しは、できるだけそのまま残しました。第一章から第七章までが母の語り、章の合間の短い文章とこのまえがき、あとがきが私、巻末のレシピは母と私の共同作業です。
一冊にして分かったのは、母の七十年が、そのまま台所の七十年だったということです。井戸からかまど、ガス、いまのIHまで。母の話は、母だけの話ではありませんでした。