カンボジアの歴史 年表
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フランス植民地時代
- 1863年
フランスによる植民地支配の始まり
1863年にフランスがカンボジアに進出し、植民地時代が始まりました。
1863年、フランスがカンボジアにやって来て、およそ90年続く植民地時代が始まりました。カンボジアはフランスの保護国とされ、フランス領インドシナの一部として統治されました。この時代、カンボジア人の教育の機会はとても限られており、1940年代まで国内に高校は1校しかありませんでした。
- 1930年
インドシナ共産党の結成
ホー・チ・ミンがインドシナ共産党を結成しました。のちのクメール・ルージュの源流の一つです。
1930年、ベトナムの革命家ホー・チ・ミンがインドシナ共産党(ICP)を結成しました。この党は1951年に国ごとの組織に分かれ、カンボジアの組織はクメール人民革命党となりました。のちにカンボジアで政権を握るクメール・ルージュ(カンボジア共産党)は、この流れをくんで生まれました。植民地時代に生まれた運動が、その後のカンボジアの歴史に大きな影響を与えることになります。
- 1951年
クメール人民革命党の結成
インドシナ共産党が国ごとに分かれ、カンボジアではクメール人民革命党(KPRP)が生まれました。
1951年、インドシナ共産党は国ごとの組織に分かれることになりました。カンボジアではクメール人民革命党(KPRP)が結成されました。この党は、のちにクメール・ルージュと呼ばれる勢力へとつながっていきます。当時のカンボジアでは、フランスからの独立を求める動きが強まっていました。
独立
- 1953年
カンボジア独立
1953年11月9日、カンボジアはシハヌークの指導のもとフランスから独立しました。
1953年11月9日、カンボジアはシハヌークの指導のもと、フランスからの独立を達成しました。約90年間続いたフランスの植民地支配が終わり、カンボジアは自分たちの国を自分たちで治めることになりました。この日は現在も独立記念日としてカンボジアの大切な祝日になっています。しかし独立後のカンボジアは、周辺で激しくなるベトナム戦争などの影響を受けていくことになります。
- 1954年
ジュネーブ協定
ジュネーブ協定によりインドシナでの戦争がいったん終わりました。
1954年、ジュネーブ協定が結ばれ、フランスとベトナム独立勢力との戦争を中心とするインドシナ地域の戦闘がいったん終わりました。この戦争ではカンボジアやラオスにもゲリラ活動が広がっていました。協定のあと、カンボジアの共産党(クメール人民革命党)の指導部の多くはベトナムへ移りました。国内に残ったメンバーは人民派(クロム・プラチアチョン)というグループをつくり、のちに「クメール・ルージュ」と呼ばれるようになります。
- 1960年
カンプチア労働者党の発足(秘密党大会)
プノンペンで秘密の党大会が開かれ、カンプチア労働者党が発足しました。
1960年9月、プノンペンで最初の共産党大会が秘密のうちに開かれました。この大会でクメール人民革命党は「カンプチア労働者党」と名前を変えました。この組織が、のちにカンボジアを支配するクメール・ルージュの中心になっていきます。当時はまだ小さな組織で、その存在はほとんど知られていませんでした。
- 1963年
ポル・ポトが党書記に就任
サロト・サル(のちのポル・ポト)が共産党の書記になりました。
1963年2月、サロト・サル(のちにポル・ポトと名乗る人物)がカンボジアの共産党の書記(トップ)になりました。同時にヌオン・チアが副書記になりました。この二人は、のちに民主カンプチア政権の中心人物となります。この頃から党は、政府に対する闘争の準備を進めていきました。
- 1966年
共産党勢力による武装闘争の開始
1966年から1968年にかけて、共産党勢力がサムロートなどで武装闘争を始めました。
1966年から1968年にかけて、カンボジア共産党(CPK)は武装闘争を始めました。サムロートやバイ・ダムラムといった場所で蜂起(住民の反乱)が起こりました。これがのちに国全体を巻き込む内戦へとつながる、武力衝突の始まりでした。カンボジアの平和は、この頃から少しずつ崩れていきました。
内戦
- 1970年
ロン・ノルのクーデターと内戦の始まり
1970年3月、ロン・ノルがシハヌークを追放してクメール共和国を樹立し、内戦が始まりました。
1970年3月、首相のロン・ノルがクーデターを起こし、国家元首だったシハヌークを追放して「クメール共和国」を樹立しました。同年5月には、カンボジア共産党(クメール・ルージュ)が、国外に逃れたシハヌークの亡命政府(GRUNK)の旗のもとで新政権への軍事行動を始めました。こうしてカンボジアは、およそ5年間続く内戦に突入しました。この内戦の中で、多くの武器や地雷が国内に持ち込まれていきました。
- 1973年
カンボジアへの大規模爆撃
1973年1月から8月にかけて、アメリカの支援を受けた爆撃で約50万トンの爆弾がカンボジアに投下されました。
ベトナム戦争が広がる中、1970年から1973年にかけてカンボジア国内でも爆撃が行われました。特に1973年1月から8月には、アメリカの支援を受けたクメール共和国政府により、約50万トンもの爆弾がカンボジアに投下されました。この爆撃で使われた爆弾の一部は爆発せずに地中や地表に残り、今も残る不発弾(UXO)問題の大きな原因になりました。カンボジア東部を中心に、クラスター弾を含む不発弾の汚染が現在まで続いています。
民主カンプチア(ポル・ポト政権)
- 1975年
強制労働と大量の犠牲(1975〜1979)
1975年から1979年の間に、150万〜200万人が命を落としたと推計されています。
1975年4月から1979年1月までの民主カンプチア時代に、150万〜200万人もの人々が亡くなったと推計されています。これは当時のカンボジアの人口のおよそ3分の1にあたります。人々は強制労働や迫害、処刑の犠牲となり、この悲劇は「キリング・フィールド」として世界に知られるようになりました。ベトナム系やチャム系の少数民族に対する迫害も行われました。
- 1975年
都市からの強制移住
クメール・ルージュは首都の住民約200万人を農村へ強制移住させました。
プノンペン制圧の直後の1975年4月18日から29日にかけて、クメール・ルージュは首都の少なくとも約200万人の住民を農村部へ強制的に移住させました。シェムリアップ、タケオ、バッタンバンなどの地方都市の住民も、同じ年の8月までに移住させられました。人々は住み慣れた家を追われ、農村での厳しい集団労働を強いられることになりました。都市はほとんど空っぽになりました。
- 1975年
プノンペン陥落・クメール・ルージュ政権の成立
1975年4月17日、クメール・ルージュがプノンペンを制圧し、5年間の内戦が終わると同時に新たな悲劇が始まりました。
1975年4月17日の朝、首都プノンペンがクメール・ルージュ(カンボジア共産党)の軍に制圧されました。これにより5年間続いた内戦と外国の介入・爆撃の時代は終わりました。しかしこの日から、クメール・ルージュによる「3年8か月20日」と呼ばれる過酷な支配が始まりました。人々が待ち望んだ平和ではなく、さらに大きな苦しみの時代の始まりでした。
- 1976年
民主カンプチアの成立
1976年1月5日の新憲法で国名が「民主カンプチア」となり、4月にポル・ポトが首相に就任しました。
1976年1月5日、新しい憲法によって国の名前が「民主カンプチア」と定められました。同じ年の4月にはシハヌークが国家元首を退き、ポル・ポトが首相に就任しました。政権は住民の強制移住や強制労働をともなう極端な政策を進めました。国内には200を超える治安センター(収容所)がつくられ、多くの人々が捕らえられました。
カンプチア人民共和国の時代
- 1979年
地雷の大量敷設が進む(K5地雷原など)
1979年前後から1990年代まで、タイ国境地帯を中心に大量の地雷が敷設されました。
カンボジアの地雷・不発弾問題は、1960年代半ばから1998年末まで続いた一連の紛争の結果として生まれました。特に1979年のクメール・ルージュ政権崩壊のときの戦い、そして1980年代から1990年代を通じた戦闘の中で、大量の地雷が敷設されました。タイと国境を接する北西部の農村地帯には「K5」と呼ばれる地雷原が残され、世界で最も密度の高い地雷汚染の一つとなりました。1979年以降に記録された地雷・不発弾の被害者は65,000人を超え、そのうち18,800人が亡くなり、約45,000人がけがをし、9,087人が手足を失いました。
- 1979年
ベトナム軍のプノンペン制圧・民主カンプチア政権の崩壊
1979年1月7日、ベトナム軍がプノンペンを制圧し、クメール・ルージュ政権は崩壊しました。
1979年1月7日、ベトナム軍がプノンペンを制圧し、クメール・ルージュによる民主カンプチア政権は崩壊しました。「3年8か月20日」と呼ばれた過酷な支配は終わりましたが、クメール・ルージュはタイ国境方面へ逃れて抵抗を続けました。国連では1979年から1990年まで、プノンペンの新政権ではなくクメール・ルージュ側がカンボジアの正式な代表と認められ続けるという複雑な状況が生まれました。カンボジアの戦乱はその後も続くことになります。
- 1982年
反ベトナム三派連合の結成
クメール・ルージュがシハヌーク派・ソン・サン派と連合を組み、内戦が続きました。
1982年、クメール・ルージュはシハヌーク王子の勢力、および非共産主義の指導者ソン・サンの勢力と連合を結成しました。この三派連合は、ベトナムが支援するプノンペンの政権と対立を続けました。カンボジアでは1980年代を通じて内戦状態が続き、タイ国境地帯を中心にさらに多くの地雷が敷設されていきました。
- 1989年
ベトナム軍のカンボジア撤退
ベトナムは1989年9月26日までに軍をカンボジアから完全に撤退させました。
ベトナムは、自国の軍隊・志願兵と装備を1989年9月26日までにカンボジアから完全に撤退させたと、のちに国連(UNTAC)へ書面で確認しました。約10年間に及んだベトナム軍の駐留が終わり、和平への大きな一歩となりました。しかし国内の各勢力の対立は残っており、戦闘はまだ完全には終わっていませんでした。国際社会はカンボジア和平の枠組みづくりを本格化させていきます。
和平とUNTAC
- 1991年
国際NGOによる地雷除去活動の開始
1991年、国際NGOのHALOトラストがカンボジアで地雷除去活動を始めました。
和平の動きが進む中、1991年に国際的な地雷除去NGOであるHALOトラストがカンボジアでの活動を始めました。長い戦乱で国土に残された大量の地雷を取り除く、長期にわたる取り組みの始まりでした。HALOトラストはその後、カンボジアで328,483個以上の地雷を処理しています(掲載ページ閲覧時点の累計)。地雷除去は、難民の帰還や農地の再生に欠かせない仕事として続けられています。
- 1991年
国連カンボジア先遣ミッション(UNAMIC)の設立
パリ協定の調印直後、国連の先遣ミッションUNAMICがカンボジアに派遣されました。
1991年10月、パリ和平協定の調印の直後に、国連安全保障理事会は先遣ミッションである国連カンボジア先遣ミッション(UNAMIC)を設立しました。UNAMICは、本格的な国連活動(UNTAC)が始まるまでの間、停戦の維持を助けるためにカンボジアに展開しました。国連がカンボジアの和平実施に直接関わる第一歩となりました。
- 1991年
パリ和平協定の調印
1991年10月23日、カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定がパリで調印されました。
1991年10月23日、パリで「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定」(パリ和平協定)が調印されました。カンボジア側は、シハヌークを議長とする最高国民評議会(SNC)が代表を務めました。会議には国連安全保障理事会の常任理事国5か国、ASEAN6か国、オーストラリア、カナダ、インド、日本、ラオス、ベトナムが参加しました。この協定により、20年以上続いた戦乱を終わらせ、国連の管理のもとで選挙を行う道すじが決まりました。カンボジアの平和構築の出発点となった歴史的な合意です。
- 1992年
難民約36万人の帰還
UNTACの時期に、タイ国境の難民キャンプから約36万人が故郷へ帰還しました。
UNTACの活動期間中、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の監督のもとで、約36万人の難民・避難民の帰還と再定住が実現しました。戦乱の間に故郷を離れていた人々が、ようやく帰ることができたのです。しかしタイと国境を接する北西部には特に多くの地雷が残されていました。帰還した人々が安全に暮らし農業を再開するためには、地雷の除去が欠かせない課題でした。
- 1992年
国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の設立
1992年2月28日、安保理決議745によりUNTACが設立され、3月15日から展開を始めました。
1992年2月28日、国連安全保障理事会は決議745によって、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)を最長18か月の期限で設立しました。UNTACの展開は1992年3月15日に正式に始まりました。UNTACの任務は、停戦の監視、外国軍の撤退の確認、各派の武装解除、行政の監督、人権の保護、そして自由で公正な選挙の実施と、とても幅広いものでした。国連が独立国の統治に直接責任を持つのは、これが初めてのことでした。
- 1992年
カンボジア地雷対策センター(CMAC)の設立
1992年、カンボジアの地雷除去の中心となるCMACが設立されました。
1992年、カンボジア地雷対策センター(CMAC)が設立され、同年6月から地雷除去の活動を始めました。CMACはカンボジアを代表する地雷除去組織として、調査と土地の解放、地雷・不発弾の除去、危険回避教育、訓練、研究開発などを担っています。1992年6月から2023年6月までに、CMACだけで約1,616平方キロメートルの地雷・不発弾汚染地域を解放しました。2024年1月までに処理した地雷は596,168個にのぼります。現在はプノンペンの本部、6つの州除去ユニット、訓練センターに約1,700人の職員が働いています。
- 1993年
国連管理下の総選挙
1993年5月23日から28日に総選挙が行われ、登録有権者の89.56%にあたる約427万人が投票しました。
1993年5月23日から28日にかけて、UNTACの管理のもとで制憲議会の選挙が行われました。投票したのは4,267,192人で、登録された有権者の89.56%にのぼりました。とても多くの人々が投票所に足を運び、平和への願いを示しました。この選挙は、カンボジアが戦乱の時代から新しい国づくりへ進む大きな一歩となりました。
王国の再建
- 1993年
新憲法公布とカンボジア王国の再建
1993年9月、新憲法が採択・公布されて立憲君主制のカンボジア王国が再建され、シハヌークが国王に選ばれました。
1993年9月21日、制憲議会は賛成113・反対5・棄権2で新しい憲法を採択しました。シハヌークがこの憲法を公布し、カンボジアは独立・主権・平和・中立・非同盟をかかげる立憲君主制の「カンボジア王国」として再出発しました。同じ日にシハヌークは王位評議会によって国王に選出されました。国王はフンシンペック党のラナリット王子を第一首相に、人民党のフン・セン氏を第二首相に任命しました。UNTACの任務は1993年9月24日に終了し、カンボジアの新しい国づくりが始まりました。
- 1997年
対人地雷禁止条約(オタワ条約)に署名
1997年12月3日、カンボジアは対人地雷禁止条約(オタワ条約)に署名しました。
1997年12月3日、カンボジアは対人地雷の使用・貯蔵・生産・移譲を禁止する対人地雷禁止条約(オタワ条約)に署名しました。世界有数の地雷被害国であるカンボジアにとって、この条約への参加は大きな意味を持つものでした。条約は、保有する地雷の廃棄や、埋まっている地雷の除去を各国に義務づけています。カンボジアはこの後、批准と国内法の整備を進めていくことになります。
- 1999年
クメール・ルージュの消滅と戦乱の終わり
1998年末までに戦闘が終わり、1999年までにクメール・ルージュは消滅しました。
クメール・ルージュは1999年まで存続しましたが、指導者たちが政府へ投降するか、逮捕されるか、亡くなるかして、組織として消滅しました。カンボジア政府の公式文書も、国を苦しめた一連の紛争は「1960年代半ばから1998年末まで」続いたと記しています。1960年代から数えて約30年に及んだ戦乱の時代が、ここにようやく終わりました。しかし戦乱が残した大量の地雷と不発弾は、その後も人々の暮らしをおびやかし続けることになります。
- 1999年
対人地雷を禁止する国内法の施行
1999年5月28日、対人地雷の使用を禁止するカンボジアの国内法が施行されました。
1999年5月28日、対人地雷の使用を禁止するカンボジアの国内法が施行されました。これは対人地雷禁止条約(オタワ条約)を国内で実施するための法律です。地雷で多くの国民が犠牲になってきたカンボジアが、自らの法律で地雷を禁止した重要な節目でした。条約の批准(1999年7月28日)に先立って国内の体制を整えたことになります。
- 1999年
オタワ条約の批准(2000年1月1日発効)
1999年7月28日にオタワ条約を批准し、2000年1月1日にカンボジアについて条約が発効しました。
カンボジアは1999年7月28日に対人地雷禁止条約(オタワ条約)を批准しました。条約は2000年1月1日にカンボジアについて発効し、カンボジアは正式な締約国となりました。これにより、原則として発効から10年以内(2010年1月1日まで)に、国内の地雷原の対人地雷をすべて除去する義務を負うことになりました。世界有数の地雷汚染国であるカンボジアにとって、これはとても大きな挑戦の始まりでした。
現代
- 2000年
カンボジア地雷対策・被害者支援庁(CMAA)の設立
2000年9月、王令177号によりCMAAが設立され、地雷対策全体を統括する体制が整いました。
2000年9月、王令第177号によってカンボジア地雷対策・被害者支援庁(CMAA)が設立されました。CMAAは、カンボジアの地雷対策セクター全体を規制・監視・調整する役割を持つ政府機関です。除去団体の認可、国家戦略の作成、データ管理、品質管理、危険回避教育や被害者支援の調整などを担っています。実際に除去を行うCMACなどの組織と、それを統括するCMAAという体制がここで整いました。
- 2006年
クメール・ルージュ裁判(ECCC)の開始
カンボジア特別法廷(ECCC)が2006年から2022年まで、クメール・ルージュ時代の犯罪を裁きました。
カンボジア特別法廷(ECCC)は、1975年4月17日から1979年1月6日までの間に起きた犯罪を裁くための裁判所で、捜査と審理は2006年から2022年まで行われました。2014年8月には、元政権幹部のキュー・サムファンとヌオン・チアに有罪判決が下されました。ECCCは、国際社会の支援を受けた国内法廷として、元国家元首をジェノサイド(集団殺害)の罪で有罪とした世界で初めての裁判所となりました。2023年1月からは記録の保存や被害者支援などの残余機能の段階に移り、23万点を超える裁判資料が公開・保管されています。
- 2008年
貯蔵対人地雷の廃棄完了
カンボジアは2008年、貯蔵していた対人地雷203,671個の廃棄完了を報告しました。
カンボジアは2008年、オタワ条約の義務にもとづき、貯蔵していた対人地雷の廃棄を完了したと報告しました。廃棄された地雷は合計203,671個にのぼります。条約で認められた目的のための少数の地雷だけが残されました。埋まっている地雷の除去とあわせて、「もう地雷を使わない」という約束を実行に移した節目です。
- 2009年
地雷除去期限の第1次延長(2020年まで)
2009年、カンボジアは除去期限の延長を要請し、新しい期限が2020年1月1日と定められました。
オタワ条約でカンボジアに課された当初の除去期限は2010年1月1日でした。しかし1992年から2008年までに4億7,600万平方メートル以上の土地を解放し、対人地雷814,698個、対戦車地雷19,109個、不発弾1,740,831個を処理してもなお、汚染の規模はあまりに大きいものでした。そこでカンボジアは2009年5月11日に期限の延長を要請し、同年のカルタヘナ・サミットで承認されて、新しい期限は2020年1月1日となりました。地雷問題の深刻さと、除去という仕事の大変さを物語る出来事です。
- 2011年
対人地雷禁止条約・第11回締約国会議を開催
2011年、カンボジアはオタワ条約の第11回締約国会議を開催しました。
2011年12月、カンボジアは対人地雷禁止条約の第11回締約国会議(11MSP)を開催しました。カンボジアは、対人地雷廃絶を求める国際的な運動が約20年前に始まった土地でもあり、条約の会議がその原点に戻ってきたという意味で特別な会議となりました。地雷被害国だったカンボジアが、国際会議を主催する側になったことは、復興の歩みを世界に示す出来事でした。
- 2017年
国家地雷対策戦略2018-2025の承認(2025年地雷フリー目標)
2017年12月、「2025年までに既知の地雷のないカンボジア」を目指す国家戦略が承認されました。
2017年12月、カンボジアは国家地雷対策戦略(NMAS 2018-2025)を承認しました。この戦略は、「2025年までに既知の地雷のないカンボジアを実現する」という目標をかかげたものです。それまでの国家地雷対策戦略2010-2019に代わり、独立機関による見直しをふまえて作られました。除去の優先順位づけ、危険回避教育、被害者支援などを一つにまとめた総合的な計画です。
- 2019年
地雷除去期限の第2次延長(2025年末まで)
2019年、カンボジアは除去期限の再延長を要請し、期限は2025年12月31日となりました。
2019年3月27日、カンボジアはオタワ条約第5条の除去期限について、2度目の延長を要請しました。要請は同年の第4回検討会議で承認され、新しい期限は2025年12月31日となりました。2010年から2018年までにカンボジアは5億7,700万平方メートル以上の対人地雷汚染地域を解放し、当初の目標を上回る成果を上げていました。それでも2018年12月時点で約8億9,000万平方メートルの汚染地域が残っており、除去にはまだ長い時間が必要でした。
- 2024年
地雷・不発弾被害の大幅な減少
2024年の地雷・不発弾による被害者は49人と、かつてに比べ大きく減りました。
1979年以降、カンボジアでは65,000人を超える地雷・不発弾の被害者が記録されてきました。しかし長年の除去活動と危険回避教育の成果により、被害は大きく減っています。2024年にカンボジア地雷対策・被害者支援庁(CMAA)が記録した被害者は49人でした。被害がゼロになる日を目指して、除去と教育の取り組みが今も続けられています。
- 2025年
地雷除去期限の第3次延長(2030年末まで)
2025年、カンボジアは除去期限の3度目の延長を要請し、新しい期限は2030年12月31日となりました。
2025年4月7日、カンボジアはオタワ条約第5条の除去期限について3度目の延長を要請し、同年10月16日に改訂版を提出しました。要請は2025年12月の第22回締約国会議で承認され、新しい期限は2030年12月31日となりました。カンボジアは2024年にも調査と除去で130平方キロメートルの地雷汚染地域を解放しています。一方、2024年11月に始まったタイ国境沿いの地雷原調査は、国境情勢の悪化などにより2025年6月に中断されました。「地雷のないカンボジア」の実現に向けた挑戦は、2030年を新たな目標として続いています。
出典・参考資料
- 出典0012
- 出典0007